ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 聖なる行進

早い時間に直帰できたある日の午後。近所に見慣れない光景が広がっていた。それは7,8台の車椅子とそれに随伴する人たちの一直線の行列だった。同じくらいの年恰好の人たちが、ゆっくり、ゆっくり、進んでいく。
車椅子の間を、急いで自転車ですり抜けようとしたら、行列全体がぴたっと止まってしまった。
「ほら、こういうのが来るからこわいでしょう?」
「ああそうだねえ」
みんながしみじみと自転車の怖さをかみしめている。期せずして私は、上の目線から彼らを脅かす「暴力」の代表となってしまった。最近は自分の病気や仕事のことで弱者気分だったので、突然の役割の転倒に私自身とまどったといってもいい。ペダルをこいで、そそくさと立ち去った。
最初は施設のお散歩だと思った。だが老人ホームというほどには老けていないし、身体に障害のある感じでもない。よく見ると先頭と最後尾の人の胸に「講習中」の札が下がっている。そうか、老人介護の実習中だったのか。だから車椅子に乗った人も普通の人で、椅子に乗ると視界がどのように変わるのか全身全霊をこめて「感じて」いたのだ。
まもなく介護するからにせよ、介護されるようになるからにせよ、彼らにとって車椅子というのは近い将来の確実な「事実」であり、そこに彼らの真剣さがあった。養老孟司の「バカの壁」というやつだ(医学部生に出産ビデオを見せても、女子は真剣に見るが男子は真剣に見ない)。
つい最近までは会社の部長クラスで活躍していたはずの男たちが、身動きままならない弱者に視線を変える。それは貴重な体験で、もっと早い時期にその体験があればもっとよかっただろうが、それでもないよりはましである。私自身、がんという病気を、もし20代に体験していたら、その後ものすごく充実した人生を送っただろうな、と思うことがある(若年初発は予後が悪いというかいう話は別にして)。40代では、今からピアニストやバレーリーナになりたいと思っていくら努力しても(なるからにはプロになりたい)、明らかに手遅れだ。
全ての人が、真剣な気持ちで弱者の視線を疑似体験できたなら、世の中のあらゆるハラスメントや争いごとがなくなることだろう。だが残念なことに、老いてよぼよぼになるまで、一度も弱者になったことのない人たちが世の中の大多数を占めているように思う。そういう傲慢さが、世間の論調や空気を作っている。