ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 私

「私」というのは、能力や個性なるものを「持つ」とされる、「精神」としての「私」ではなく、かといって、この医学的な「肉体」でもないように思う。私のもつ感覚的な「私」に一番近いのは、下記のような「人-間」としての「私」かもしれない、と思った。

気がつけば、自分が現にいる。その自分は、きのうも、おとといも、いた。そのことは、紛うかたなく思い出せる。しかし、自分がいつ・どのように生まれたのか、それは思い出しようもない。・・・どんなに鋭敏な記憶力をもってしても、思い出せるのは、気がつけばまずこちらに呼びかけ・応じてくれている相手の立ち現れまで、である。そのとき、ただ眠り、ただ垂れ流す乳児に向かって呼びかけ・応じていた者たちは、通常の言語的な、あるいは振舞いによる応答が戻ってくることなどまったく期待もせずに、ただ呼びかけ・応じていた。しかしながら、こうした非対称的な呼応において、塵の塊でしかなかったものが、いつしか私に成った。そうだとしたら、かつてそのように呼びかけ・応じてくれた者たちが、呼べども応えなき骸と化して塵に帰したあと、こんどは私の方で、もはや答えが戻ってくることの不可能性を所与としたうえでも、かつて呼びかけ・応じてくれた者たちの行方が、気にかかってくる。これは、文学的に誇張して言えば、非対照的・不可逆的な時の間としての人-間の必然でさえあろう。

息子が生まれたとき、私の夫は赤ん坊に話しかけなかった。同じ空間にいても、どうせわからないのだから、とパソコンに向かった。子どもが2,3歳になってカタコトを話すようになっても、どうせ意味のないことだから、と、返事もせず、完全に「無視」した。それを見た周りの老婆たちが驚くほどに。ようやく物がわかる10歳前後の今になって初めて、理科や社会の知識をこれでもか、というくらいに息子に語りかける。わめきたてる。恐ろしく一方的に。
むき出しの権力や抑圧。だがそれでも「子ども」は歪まず、その親を受け入れて、人間になっていく。

所有という神話―市場経済の倫理学