ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

女性セブンの記事

『女性セブン』7/6号に掲載された記事「74才の乳房再建」を読む。再建の是非についてはもう何も言うつもりはないし、記事に登場する女医が「エンタメ」TVと同じ人物であるということも、登場する患者がかなり重なっていることも、問うまい。とにかく、「記事の作り」、つまり記事を構成する視点が、イヤだと思った(せめて責任を示す意味で筆者の署名くらい入れてくれないか?)。「(胸をなくすくらいなら)このまま死んでもいい」「もう私、人間じゃなくなったのかな」など、「命」よりも美しい「胸」に固執する女性たちのショッキングな言葉が小見出しに踊る。それが「全ての女性」の当然のメンタリティーだといわんばかりの論調は、「暴力」であろう。また、自分なりに折り合いをつけて生きている乳がん患者にとっては、「なに、それじゃあ私は生きてちゃいけないわけ?」という気分にもなる。
私個人は、「74才」の再建はちょっとがんばりすぎではないかと感じるのだが、それを口に出せない何かがある。人々が自発的に口をつぐむ何かのことを「タブー」という。禁忌を作るのは社会であって、自然ではない。「女の美の絶対化」というタブーは家父長制などの社会制度によって作られ、そして現代社会では商業主義によって支えられている。なぜなら女が美への関心を失ったら、洋服や化粧品産業が崩壊するし、金儲けや出世という男性市場に女がどっと参入して男も困るからである。
女性週刊誌には必ず障害や病気の「子ども」の特集がある。同情や励ましの文体で語られているが、そうした記事が多分に読者の好奇心をそそり、購買数を確保すること、また読者が自分と彼らを差異化する(=この可愛そうな子とくらべたら自分はなんて幸せでしょう)ことで一種の精神的な安定と満足を覚える、という構造をもつ点では一貫している。「外」に不可触賎民をおくことでカースト制度が安定したように、健康と美をうたう現代大衆消費社会はその「外」に「病人」や「外見の正常ならざる者」を置いて、彼らを劇場的に哀れみ、彼らの姿を消費する。実際は紙一重であるにもかかわらず。最近テレビで相次ぐ「がん特集」もこの域を出ない。
テレビと女性週刊誌だけを情報源にする乳がん患者は、彼らの視線を内面化して「私はおかわいそう」路線に入ってしまいがちだ。だがそれではいつまでも幸せになれないと思う。